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台東区社会教育団体「親子でどんぶらこ」のブログです!
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小春日和のおだやかな一日、第4回の乳幼児家庭教育学級は
真打(笑)、天野秀昭さんを講師に迎えてお送りしました。

「羽根木プレーパークは今年で30周年を迎えました」
当時遊びに来ていた最年長の子どもたちは今や天命を知る年齢です。
その間に冒険遊び場も全国240ヵ所に増えました。
冒険遊び場のすべてを知る誰より子どもに近い大人、いや大きくなった子ども。
示唆に富むご自身の体験談と心に残る数々の言葉は、
子どもたちへの思いや願いと一緒に、忘れかけていた大切なものたちを思い出させてくれました。

以下、報告です。
荒いメモと拙い記憶が頼りですので言葉を飲み込むにも時間がかかりました。
正確にお伝えできるかわかりませんが、頑張って再現したいと思います。

P1000704.JPG


「遊ぶってどういうことだと思いますか?」
始まりの問いかけはこうです。

鬼ごっこは遊びか?→全員Yes
じゃあ、こんな状況を考えてみて。
ひとりで静かにぼうっとしている子がいる。
他の子がかけ寄ってきて、「ダメダメ。みんなでやることに意味があるんだから。」
言われてしぶしぶやる鬼ごっこは?→全員No

遊びの本質は「やってみたい」動機です。
反対に言えば、やってみたいと思うものは何だって遊び。
ひとつのエピソードがあります。
プレーパークでボランティアをしていた学生が晴れて卒業、幼稚園に就職しました。
ある日、みんなで大縄跳びをしていたら園庭の隅っこでひとりぼっちの子。
「いっしょに遊ぼうよ」と声をかけたら「ん~…」と生返事。
しばらく経ってもそのままなのでもう一度声をかけた。
「遊ぼうよ」「ん~、じゃあ、大縄終わったら本当にお遊びしていいの?」
はっと気づいた新米先生。
(わたし、プレーパークで3年もいったい何をやってたんだろう?)
強烈な自問自答でした。



子どもも遊びも、大人が理解できる範囲とは限りません。
天野さんのお子さんは二人。上の子はとても慎重でゆっくりな子でした。
ある日、なんか静かだなと思ってそばにいた子を振り返ると、
座ったまま片手だけを持ち上げて、指先でゆっくりと宙に絵を描いていた。
何をしてるんだろう?この子のなかでいったい何が起こってるんだろう?
でも何だか、そこで声をかけちゃいけない気がした。
子どもだけの世界がそこに広がっていたのでした。
遊びは内側から沸いてくるもの。それはその子以外の何ものでもありません。



「遊育」という言葉があります。
教育は「教える、育てる」。その主役は大人であり国家です。
対して遊育は「遊ぶ、育つ」。主役は子どもであり、本人です。



忘れられない小学5年生のガキ大将がいました。
いつもプレーパークに遊びに来ては小さい子たちを従えて遊んでいた。
ある日、彼とおしゃべりしていると、向こうの方で「ぎゃ!」という子どもの叫び声。
いつも一緒に遊んでいた小学2年のちびっこが地面につっぷしてギャンギャン泣いている。
その前にはあまり見かけない顔の中学生の男子が2人、
腕組みしてニヤニヤしながらそんなちびっこを見下ろしていた。
(どうしようかな?)
思う間もなく、目の前にいた彼が風のようにすっ飛んでいって間に分け入り、仁王立ちしてこう言った。
「おまえら!こんな小さい子に何やった?あやまれ!」
(すげえな、なんてスピード。それにしても中学生2人相手じゃさすがに分が悪いだろうに)
押されてもどつかれても引かない、負けない彼。
仕舞いにはさすがの中学生も根負け…捨てゼリフを残して去っていきました。
「すごいなおまえ!完敗だよ。これから師匠って呼んでもいいか?」
「なんだよそれ…別にいいけど」
大人も子どもも彼の直感と判断と行動力には一目置いていました。

そんなお師匠サンがある日、大変落ち込んだ様子で学校から帰ってきました。
聞くと、担任の先生に
「あなたはスタンドプレーばかりでクラスの和を乱すことしかしない」
と怒られ、4時間目の終りから帰りまで給食抜きで立たされたそう。
よっぽど怒られるようなことをしたんだろうとさらに話を聞いてみた。
「何かやらかしたんだろう?」「わかんない…」
「それじゃひとつずつ思い出そうぜ。朝は何時に起きた?朝ごはんは?…」
インタビューを続けるけれど、思い当たるような出来事はありません。
「?」
聞けばその先生は「真面目で熱心な先生」と評判の先生。お師匠サンもそう思ってる。
(オレがこんな尊敬してるお師匠サンなのに、その判断のちがいはなんだ?)
しばらく二人で頭を抱えたあと、ふと思い出して尋ねました。
「ところでおまえの先生って、クラスでいろいろ決めごとしたがる?」「うん、したがる」
「みんなで決めたんだからみんなで守りましょうって?」「うん、そうそう」
そこで腑に落ちました。
この先生には、思い描いている理想のクラスがあるんじゃないだろうか。

「真面目に熱心に理想のクラスづくりを日々考えている先生」
VS
「直感で行動し発言するけど子どもたちに支持されているお師匠サン」

私の思い描く理想のクラスづくりを着々と進めているのに、なんでこの子は
それと違ったことばかりしたがるんだろう?
先生の心には毎日「何か」が引っかかっていた。
引き金は何ということもなかったのだろう。
ただそのピストルの弾倉には毎日タマが込められ続けていたのだ。
「なあ、そういうことじゃないの?」「それなら心当たりがあるかも…」
「でも、オレはお師匠サンのこと尊敬してるぜ」「うん…分かった」

彼は納得した面持ちで帰っていきました。
でも、オレのなかにはやっぱり引っかかるものが残った。
この子を問題視する大人がいるなんて思いもよらなかった。
いったい全体、この問題は誰が生んでいるんだろう?
目の前にいるこの子たちと一緒のクラスでなく、
どこかにある理想のクラスをつくろうとした先生の思いは
いったいどこからやってきたのだろう?



子どもを例えて「アメーバのよう」と形容した人がいました。
実体が不明で行動も予測不可能、好きなものにはすぐにぱくりと食いつく…
そんな子どもたちに対して、僕らは勝手に「いい子」像を当てはめようとしていないか。
僕らと同じ形をしたミニチュアの、予測可能な子ども像を考えていないだろうか。

目的を決めて、それに向けて何かを達成したくてたまらない僕たち大人。
対する子どもたちはといえば、
落とし穴をつくっていたと思ったら、素焼きの欠片ひとつ見つけただけで目的が土器発掘に変わってしまう。
その理由は本人すらよく分かっていないのだ。

ある日、例のごとく竹トンボの竹を削っている子がいました。
ところがちょっとナイフがすべって削りすぎた。
しばらくじっと見ていたあと「ま、いっか。オデンの串にしよう」
また削り始めた。
またちょっとやり過ぎたのか削りすぎた。
しばらくののち「ま、いっか。ツマヨウジにして父さんのおみやげにしよう」

僕らならこう言うだろう。
「あー失敗だ。削りすぎだよ」
竹トンボ作りが竹トンボ教室になった途端、正解は竹トンボだけになるのだ。
その言葉は自らの失敗を静かに受け止めている子どもたちの心に、
止めを刺し、崖から突き落とす言葉だ。

本当に大切なのは竹トンボの正解を知っていることだろうか。
それとも、
人生でうまくいかなかったときに、「ま、いっか」と考え直して別の方法を考える習慣だろうか。
挫折しても自ら再生できる柔軟でしなやかな力、
そんな生きる力が今もとめられているような気がします。



そもそも、「生きる力」なんて子どもたちには元々備わっているものです。
生れ落ちたばかりの赤ん坊は言われなくても勝手に生き、伸びる力を持っている。
生きる力を育むなんて言うけれど、
いったい誰がその生まれ持つ力をこそいでいるんだろう。
「生き延びる力」というのもあります。
一人では生きられないかわりに、自分の命を握っている人間は誰かをよく見ている。
その人が何を要求しているか、どうやったらその人から愛されるか、
これを見抜く力は僕たちの想像をはるかに超えています。
自分を愛してくれる唯一の大人が自分のミニチュアを望んだ場合、
その子は一生懸命にミニチュアの自分をつくります。
特に感性が高く器用な子は、3歳までにはこれを完成できる。
本人の記憶にも残らない大人の張り子の状態です。
その問題は思春期になってはじめて表面に表れる。
中学生や高校生を見ていて気づいたのです。
「なんだこいつらのやっていることって、幼児とおなじじゃないか」
それから僕は思春期のことを第二幼児期と呼ぶようになりました。
彼らは本当は幼児のうちにやっておかなければいけなかったことを、
やっていなかっただけなんじゃないか?
彼らの大半はやってみたいということがなくなっています。
この自分は本当の自分じゃないというギャップにいつも悩んでいる。
けれど、このつくられた自分を壊すことは本当に大変。
壊したあとも親やみんなに愛してもらえるか、
そのあとで新しい自分がうまくつくれるか、
どうも自信がありません。



「やってみたい」というのは快の感情、
反対に「やりたくない」というのは不快の感情、
これらは情動の世界の言葉です。
それに対して、「善悪」とか「正誤」とかは価値観の世界の言葉。
この二つはまったく別モノです。これらを混同すると、
「あの人すごくいい人だからホレるといいよ」とか、
「あの人は本当にひどいから好きになっちゃダメ」とか、
そういう話になる。
遊びの世界は前者の情動の世界です。
生まれたばかりの赤ん坊にとっては情動を表現することが唯一の命を守る手段。
私たちの命を輝かせているのもこちらです。
でも、
そんな子どもたちが自由に遊んでいるところには、
「あぶない、きたない、うるさい」のA、K、U、
俗に言う子どもの3つのAKUがあらわれます(笑)
社会全体が子どもの遊びを悪として嫌っている。
社会全体が子どもが子どもでいることを嫌っている。
子どもも大変。親も大変です。
電車に乗っても公園に行ってもチクチクビームが飛んでくる。
少子化も虐待も、こんなところからきている気がします。



なんで子どもの遊びは危ないのでしょうか?
子どもたちにとって世の中のほとんどはやったことのないことばかりです。
赤ちゃんが歩き出したときはみんな喜んで応援するのに、
走り出すと危ないから走るなと言うのはなぜでしょうか?
日々が自分の限界を超え広げようとする世界は危ないに決まっています。
そして危ないから集中する。
大人の背より高い小屋の屋根からはじめて飛び降りるとき、
凸凹で草ぼうぼうの地面を全速力で走りぬけるとき、
やりたいことをやる経験が集中力を高めます。
こうして集中するという気の構えを体得していれば、
大きくなってからも意識的にこれをコントロールすることができる。
自分の限界を知っているから無茶をしないし、人の限界も分かるのだと思います。

羽根木プレーパークのリーダーハウスの屋根は高さ3m。
軒下に置いてあるマット目がけて、小学生たちが順番に飛び降りていきます。
あと2週間で小学生になるヒナは僕の膝のうえに座って、そんなみんなの姿をじっと見ている。
あまりに長い時間見ているので声をかけてみました。
「ヒナも飛んでみる?」「ううん、小学校に入ってから飛ぶことにしてるの」
そうか。
それでもずっと見ているヒナ。3分くらいたっただろうか、
「やっぱり飛んでみる」
そういうと僕の膝をおりてリーダーハウスの屋根にのぼり、順番待ちの列に並びました。
(大丈夫かな、後押ししちゃったかな)
ヒナの順番がきました。
屋根の縁に立ってみるとやっぱり怖かったのだろう、しばらく下を見ていたあと、
「飛ぶなら飛んで、飛ばないならどいて」という声がかかるのを機に列の後ろに戻りました。
そしてもう一度ヒナの番。やっぱりダメで元に戻ると、今度は屋根の上に座り込みました。
僕は内心ほっとして元の仕事に戻りました。
それから20分後、ふと屋根を見上げると、またヒナが列に並んでいるではないか。
さっきと同じように順番がきて、やはり同じように立ちすくむヒナ。
これまた同じように「飛ぶなら飛んで…」の声、でもヒナは、チラッと振り返るとまた前を向きました。
後ろに並ぶ子どもたちも静かに見守りに入ります。
2分くらいの沈黙の時間。たまりかねた子が「そろそろどっちか決めて」と口に出した瞬間、
ヒナは宙に飛び出しました。

きっとヒナはこのシーンを一生忘れないだろう。
限界を超えるというのは、ちょうど潮が満ちるように、体中の準備と集中力が高まった結果です。
限界に挑戦しつづけることではじめて身につく危険回避能力と危機察知能力。
僕はそんなヒナと同じくらい、ヒナの挑戦をまわりで見守り、支えた羽根木の子どもたちのことを誇らしく思います。
彼らはヒナが今まさに限界に挑戦しようとしていることを、そしてそんなヒナにとって何より集中が必要であることを、一瞬で「体験的に」理解したのでした。



イギリスの冒険遊び場の創始者のひとりであるアレンは、
"Better a broken bone than a broken spirit,"
「(やってみたいという)心を折るくらいなら、骨を折る方がまし」
といって、これらの危険回避・察知能力に無頓着な社会風潮に警鐘を鳴らしました。

子どもの骨を折ることにはうるさいのに、心を折ることには何も感じない大人が増えています。
そうして人生の主役をのっとられた子どもは生きている実感を失ってしまう。
中高生のリストカットも援助交際も、彼ら彼女らの求めたものは生の実感でした。
不快に慣らされた子どもは、不快を不快と感じる気持ちも殺してしまう。
無感動、無意欲、無関心…目の前の人を踏んで歩いても平気な子どもが増えています。

日本の子ども政策は今、子どもをなるたけ屋内に入れようとしている。
子どもの声がうるさいなんて、いつから言うようになったのでしょうか。
AKUもお互いさまという気持ちはどこへ行ってしまったのだろう。

善悪や正誤などの価値観を教えるのは、小学校中学年以降で十分と思います。
これらは普遍性のないものです。国や時代、宗教、政治…それらによっていくらでも変わる。
反対に情動は普遍です。言葉の壁も文化の壁も飛び越える。
やりたいことを「おもしろい」と言われることで、子どもたちの気持ちに根が生えます。
自己肯定といってもいい。
子どもに関わる大人ができることは、この「おもしろい」を言ってやることです。
この世界の先住者として新参者の彼ら彼女らに、この社会にいていいのだと認めてやること。
これは人類に普遍で決して変わらないことです。



うちの子どもたちは大きくなった今も「一度もしつけられた覚えがない」といいます。それで普通に大人になっている。
しつけの善悪がどうとはいいませんが、所詮そんなものです。
わが子をちゃんと育てようなんて考えるほどガチガチになります。
「子育ては親の責任」なんて大間違い。親だけで育てると必ずいびつな子どもになります。
ヒナが飛んだとき、ヒナのお母さんは他の子どもたちと遊んでいました。
緊張の糸がゆるんで泣きながら駆け寄ってきた娘を抱きとめ、「飛べたの。本当によかったねえ」とひそやかな挑戦を讃えた母の、その心意気に共感します。
「あなたの子を育てるから、私の子を育てて」
そのくらいの思い切りがあってもいいのかなと思います。



次回の最終回は1月17日(日)、待ちに待ったみんなの理想の遊び場を描きます。
夢と思いとペンだけもって、谷中コミュニティセンターにお集まりください☆
終了後はパパたらけの新年会もアリ?みなさんよいお年をお迎えください。
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